金沢春彦伝 

 

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写真・『光源氏を愛した女たち どう命をやしたか』 1987年 カバー裏

 

 1942年4月24日、出生時戸籍名・西沢正二(にしざわ・しょうじ)として池袋の印刷業を営む両親の許に生まれる。法政大学に入学するも、東北大学文学部学部編入試験に合格して東北大学卒業後、東京大学大学院に進学。この間、仙台にて妻と結婚。一女を儲ける。大学院を中退して、県立高知女子大学(現在、県立高知大学)専任講師となり、1974年、弘前大学助教授、1985年、昭和女子大学助教授となる。この間、別々に住居を構えていた妻から、昭和女子大学理事長に、直接、辞職申し出があり、1989年を以て教授昇任を条件に退職に同意。以後、恐妻家の風評が定着する。再就職までの4年間は放送大学講師名で執筆活動、さらに代々木ゼミナール国語科の人事を掌握していた近代文学の佐藤勝に泣きつき、予備校にも出講して生計を営んだ。同時に、出版社(光文社、青春出版社勉誠社東京堂風間書房)に新書・講座企画を持ち込むようになる。

光源氏を愛した女たち どう命をやしたか』光文社カッパ・ブックス 1987年

『古文語連想-速記憶術 この218語を覚えればいい』青春出版社・青春新書 1989年

『女たちの源氏物語 光源氏を愛した十四人の女性像』光文社文庫 1992年

 さらに、個人出版社、大学書院を立ち上げ、金沢春彦名で大学教科書を刊行していたこともあった。ただし、これが駒沢女子大学解雇の導火線となる。

『女性別 源氏物語』 (上下) (新形式古典シリーズ)大学書院 1991.1992(金沢春彦・名)

『女性別新型 校注 女流日記文学』 (新形式 古典シリーズ)大学書院 1993 (金沢春彦・名)

『早わかり日本古典文学あらすじ事典』 (早わかりシリーズ)大学書院 2000(金沢春彦・名)

 

 昭和女子大学退職からこの間、南池袋のワンルームマンション等の不動産投資などに参入するも、バブル経済による不動産価格の壊滅的低迷により、高い家賃を避けて入居者がおらず、当てにした収入源とならなかったため、家計が逼迫して支払いが滞り始める。1993年、新設の駒沢女子大学助教授として着任、1996年に西沢正史(にしざわ・まさし)と改名。改名の理由を周囲には「住専住宅金融専門会社)の督促から逃れるため」と驚愕の話を平然としていたのであった。この頃から自身の教育者としての倫理観は欠落していたことになる。ただし、年功序列駒沢女子大学教授昇任。しかるに、住専はすぐに金沢本人を捜し当て、この督促は、妻と着任後の大学にも頻繁に行われるようになる。これ以前から、縁故による再就職斡旋を無視した東大系の大学関係者との対人関係に深刻なトラブルを抱えていたことが知られ、これらを昭和女子大学への怨念や短大から四年制に切り替え始めた女子大学に関する問題に絡めた業界本として刊行するも、版元の労働争議もあり、実質、お蔵入りしてほとんど流通せず、一銭の印税も支払われないまま、金沢の完全な徒労に終わった。金沢は、キャバ嬢を連想させる超ミニスカでハイヒールの女性の片足をカバーとして選定、さらに「娘をイかせる前に読む本」とのキャッチコピーを帯文として採用したが、このことも金沢の信用失墜の機縁となった。

 『女子大は憲法違反か』三一書房 1996(加藤大地・名)

 こうした徒労にもめげず、小沢一郎自由党の議員候補公募に応じ、「次期参議院選挙に出馬する」と周囲に語っていたこともあった。これは民主党合併で立ち消えとなったと周囲には語っていた。ただし、金沢の刊行意欲は衰えず、古典文学ダイジェスト本で起死回生を図るも計画は破綻し、わずか半年で絶版・裁断機の憂き目にあい、「この人の本は売れない」との評価が定着するようになった。

『日本の古典30を読む あらすじダイジェスト』幻冬舎 2004年

 

 さらに、勤務先の駒沢女子大学首脳や出版関係者とも深刻なトラブルとなっていたうえ、出版企画の多くはとん挫し、東京堂を除く版元からは、ことごとく絶縁の憂き目にあう。2005年7月、金沢をもてあましていた駒沢女子大学ならびに駒沢学園は、決定的な証拠を得て、教員資格審査委員会の設置を決定、金沢は、「理事会の横暴だ」との批判を定例教授会で連呼するも、同調者はなく、この年の12月、観念してやむなく辞表を提出した。しかし、これは受理されず、「学内規定の重大な違反」を理由に懲戒解雇となる。ただちに、東京地方裁判所八王子支部に調停を申し出、3月初旬には「懲戒」をはずすことで駒沢学園との合意に至り、前年2005年12月末日付けの解雇処分となる。本人は周囲に「解決金として4000万円を得た」と述べていたが、実際は、10年勤続の私学共済加入者の退職金であって、さらに規定違反に関する大学への弁済を含み、これら合意内容の金額を差し引いた額のみの支払いであったというのが実際である。

 同時期、住専の残滓を引き継いだ整理回収機構から「債権回収」の裁判を起こされ、延滞金を減額することで440万円余を3月中に一括返済することで合意を得ていた。したがって、本人の言う「解決金」も、実際に手許に残った金額はほとんどなかった、あるいは預金を切り崩して弁済していたことになる。以後、しばらく学園関係者のもとに「理事長が大学院生を愛人にしている」等の無署名の怪文書が送りつけられていたが、これも夏までには途絶え、以後は個人宅に同内容の文書が「金沢春彦」名で届けられるようになったという。このようないやがらせ文書は、手を換え品を換え、出版関係者宅、あるいは関係者勤務先に今日に至るまで継続的に届けられているようである。これは着信拒否されると複数のコンビニからファクスを送りつけるなどのいたちごっこの様相を呈し、陰湿さは徐々にエスカレートするのが特徴である。ただし、これに反論したり、返信したりする者はひとりとてなく、この十数年、金沢の郵送料が国家経済に寄与する、まさに一方通行のストーカー行為である。また、2008年には、迷惑防止条例に抵触するとして、埼玉県警から「警告」を受けてもいる。「警告」にはさすがに一時、迷惑行為もなりを潜めたが、罰則が緩いことを知るに至り、担当者名を巧妙に聞き出して「弾劾裁判をして罷免するぞ」との文書を警察に送りつけるアブノーマルぶりである。かくして、自身の行為が迷惑行為の自覚はありつつも、これを自身のライフワークとして自認している観がある。ただし、この時の「警告」によって、関係者の身体に危害を及ぼすようなことはしておらず、一定の抑止効果は認められるようである。

 こののち、いずれも「いやがらせ」目的の「不当提訴」と認定された裁判を起こし、今日までにすべて敗訴した。しかも、廷内で書記官から、「前の裁判の費用が未払いですから都合2千▼百円の支払いをお願いします」と通告されるも、「自宅までの交通費しか持っていない」と財布の中身を見せる醜態を晒し、廷内に失笑と憐憫が交錯した。

  2011年4月、バイクツーリングを趣味として毎夏滞在し、数年間古典講座を担当していた北海道浦河町議会議員選挙に出馬するも、当然ながら最下位で落選(落選者2名)。ちなみに、海の見渡せる豪華ホテルと周囲に語っていた宿泊先「うらかわパークホテル」は、一泊4000円前後のビジネスホテルであったし、議員報酬も全国市町村中最下位クラスであり、このように、金銭的に困窮しているにもかかわらず、人を見くびっては致命的な痛打を食らい、かつ借財を増やしてばかりの金沢春彦の典型な挙動が、この町議選出馬であると言える。

  2012年頃、文筆業の比較文学者にも絡み始めるも、千葉に在住していた妻が東京都内に蒸発。もともとの不仲に加え、駒沢女子大学退任の年の夏、整理回収機構の督促や、大学首脳批判による雇用不安に不信感を抱いていた妻が、調布の金沢宅に乗り込み、銀行の預金通帳、印鑑等を持ち去っていたため、大学退職後に63歳で支給申請した共済年金はすべて妻の手中となった。つまり、以前に不動産投資に失敗した、虎の子のワンルームマンションの家賃収入と古典講座の講師料が金沢の生活を支える基盤のすべてである。この妻の叛乱には金沢自身もショックを受け、いやがらせを続けていた比較文学者を始め、複数の関係者に「女房に逃げられた」と書簡に書いたり、留守電に同趣旨の発言を残す等の奇行を演じた。以後も、思い出したように関係者へのいやがらせは続き、大学人としての矜持や倫理観はもはやなく、以上のような関係者へのアプローチが今日のルーティン・ライフワークとなっている。「弘前時代には今のような奇行をする人とは思えなかった」との証言もある金沢は、当年76歳。これが金沢春彦の「現在」であり、一考に値する旧世代の学究の一生涯であるとは言えよう。

 -次回は金沢春彦言行録の予定。以下、続く。